日本のウイグル人支援運動の先駆者 白石先生

11月10日の早朝、白石念舟先生がお亡くなりになりました。
知人からのメールで知り、愕然としました。数年前から何度か倒れられたことがあったものの、つい先週お会いした時にはとてもお元気にされていましたので、にわかには信じられませんでした。
気落ちしていらっしゃるだろうとは思いながらも、居ても立っても居られず、先生の奥様に電話をかけさせて頂きました。「佐藤さん… お父さん、今朝亡くなっちゃった…」と泣きながらの電話での第一声に、こちらも言葉をまともに継げませんでした。しかし「最期は苦しまずに、本当に安らかな顔だったので、それが良かったです。」と仰られ、それがせめてもの救いだったなあと思わされました。


11月13日には東トルキスタン共和国独立記念行事が開かれ、僕や他の日本人スタッフもそこに合流し活動を再スタートします、と先生に報告した時には喜んで下さいました。生憎と私は自分で主催するお茶会があるから行けないけれども頑張ってください、と仰って頂きました。先生と奥さんが主催する予定のお茶会は、奥さんが悲しみの中で今準備をされています。今日荷物を搬送した、とそれを手伝っている方が言っていました。


今年の5月には、先生のライフワークの一つだった、幕末の志士の書を集め解説した本「尊皇の系譜 書による心の世界」の出版記念パーティーに参加させて頂きました。先生は記念講演で、いくつかの書とそれを記した人物の生き様を紹介されて、これからまだ他のテーマで書きたい本がいくつかあるんだ、と仰っていました。先生が出された始めての本格的な書籍ですし、これから何冊か出されるだろうそのスタートの記念パーティーに参加させて頂けて良かった、そういえばまだ先生と2人で撮った写真が無かったなと思い、始めて先生と一緒の写真をお願いしました。


そんなことで、先生がまだまだこれから活躍されるであろうこと、そして日本でのウイグル人の支援運動にも色々と協力頂こうと思っていたところでしたので、とても残念でなりません。




先生は1994年から日本シルクロード倶楽部というウイグル人と日本人の文化交流会を設立され、多くのウイグル人留学生のお世話をされました。お世話になったウイグル人は日本の大学を卒業後、世界中で活躍されています。
多くの方にそれぞれ、先生からお世話になったこと、指導して頂いたことがあるでしょうけれども、それはそれぞれの方にお話し頂くことにして、ここでは僕が個人的に先生とお付き合いさせて頂いたことを書きたいと思います。


僕が最初に白石先生にお会いしたのは、日本大学文理学部での「シルクロードの風・水・人〜日本に至る遥かな道〜」でした。その前から日本シルクロード倶楽部のことは知っていて、白石先生とお会いしたいなあとは思っていたのですが、ホームページには入会案内が無く入会できそうになかったので、案内が掲示されていたこの行事に参加させて頂きました。この時は僕はただの参加者でしたので、白石先生を見ることができた、というのが正確ですね。ウイグルの音楽と踊りが紹介され、さあ日本人のみなさんも一緒に踊りましょうと促され、楽しそうに踊りながら出て行った白石先生が印象的でした。


そして2007年の世界ウイグル会議ラビア総裁の初来日を期に、日本シルクロード倶楽部は閉鎖され、先生の日本でのウイグル民族運動がスタートとなりました。ラビア総裁から世界ウイグル会議が日本でも活動したいから、との相談を受け、先生が推薦したのがイリハムさんです。最近はあまり会うことも無かったようですが、イリハムさんのことは留学生の頃から世話をしてきたし今でも本当に可愛いんだ、と最期まで仰っていました。


僕が先生とお付き合いさせて頂くようになったのは2008年からです。聖火リレー東トルキスタン国旗を持って行き、そしてその後どのように日本で活動を展開していこうかという時に、僕も参加させて頂きました。2008年の春から一気に、デモ、集会、チベット・モンゴル・ウイグル三民族連帯の活動、シンポジウムと続き、フリー・チベットのブームもあって多くの方がウイグル支援に集まって下さり、そして世間一般にも段々とウイグルの人権・民族問題が知られるようになっていきました。
ネットなどでの外部一般の評判を気にしながら慎重に言動を選んでいた僕とは対照的に、白石先生は確信のようなものを持って泰然とした態度でいらっしゃいました。人から受ける誤解を恐れず、言い訳もせず、いずれ正しく評価してもらえることだから良いよと。そして、日本人がウイグル人を支援するのに、思想や信条なんかは関係ない、右も左も関係ない、みんな一心に前を向いてやれば良いんだ、ともよく仰っていました。
先生の確信のもとは、よくお話に出されていた西郷さんと通ずるものからであったと思います。見返りを求めず、ウイグル人のために身も心も捧げ尽くされた、まさに仁愛の人でした。
2009年春には、「あとは若い人に託します」と日本ウイグル協会から離れられました。その後日本シルクロード科学倶楽部の顧問や、私塾りんご塾を開くなどされておられましたが、ウイグル民族支援運動については「あとは若い人に託します」の言葉どおり、第一線から退かれた後は、活動への口出しはされず、暖かく見守って下さいました。


先生から頂いた言葉はとても多く、まだ自分の中で整理できておらず、どうやって書き表せば良いのかわからないのですが、あげてみたいと思います。
ウイグル人に対して、ウイグル人は先ず第一に資金力をつけなければならない、若い人にはウイグルの文化を日本人に魅力的に伝えるようなことをしてもらいたい。自分の財産は今はほとんど無くなってしまったけれど、もしまたお金ができたら若いウイグル人に投資してお店をやってもらおうか、と仰っていました。
家族を中国政府に人質に取られていることもよく承知されていましたので、ウイグル人を積極的に政治的な活動に引き込むようなことはほとんど仰っていませんでした。
そしてウイグル人支援運動をする日本人に対しては、「いま皆さんがしている活動は、ウイグルと日本の歴史に残ることなんですよ。」です。それだけ重大なことをしているのだから、もっと自信をもってやりなさい、諦めずに続けなさい、ということです。


僕は大学を卒業してから、自分の先生と呼べるような方とお会いできるとは思っておりませんでした。僕の一方的な思いかもしれませんが、白石先生はやはり僕の恩師だったと思います。とは言っても、先生は僕との付き合いで、師弟のような上下関係の態度は示されませんでした。活動を直接共にすることが無くなってからも、僕はよく先生宅におじゃまして色々な相談をさせて頂きました。先生はアドバイスをしては下さるのですが、大体は「それで佐藤さんはどうされますか?」とこちらの決断を促し、それを黙って待っていて下さいました。「若い人に託す」の言葉のとおり最期まで、暖かく見守る保護者、良き相談役でいようとしてくださいました。
僕からすると、先生はやり残したことがたくさんあるだろうし残念だったろうなという気持ち、頼っていた先生が居なくなってしまった自分の側での喪失感ということで、とても悲しく苦しいところに留まっています。しかし、亡くなった先生の少し微笑んでいる平和そうなあのお顔は、自分のやりたいことはやり尽くしましたよ、他にやり残したことはあるけれどもそれは全てあなた方若い人に託しましたよ、と言っているように思います。


先生今まで本当にお疲れ様でした。どうか安らかにお休みください。残されたご家族にも慰めがありますように。
先生が始められ、託して下さったことを、自信をもって、諦めずに続けていきます。