ETIMのキャンプ襲撃(その2)

今回事件が起きた「訓練キャンプ」地は、パキスタンアフガニスタンキルギスの国境に近いパミール高原にありました。
カシュガル地区のアクト県のコスラップ村というところです。
http://turkistanim.org/japan/news/20070109.htm

これは、1990年4月に大規模な武装衝突があった、アクト県バリン郷のすぐ隣になります。
バリン郷事件は有名で、イリ事件(グルジャ虐殺)と並んで東トルキスタンの民族・宗教紛争の代表例としてあげられています。


このバリン郷事件について、毛里和子・「周縁からの中国」に説明があります。

なかでも90年4月5日から6日にかけて、カシュガルから30キロのアクト県バリン郷で起こった、「反革命武装暴乱」事件は当局を震撼させた。事件の状況を『新疆日報』などは次のように伝えている。

 すでに前年から「ごく少数の反動分子」が清真寺を根拠に「社会主義などいらない」、「宗教でマルクス・レーニン主義を圧倒せよ」、「漢族は新疆から出ていけ」などと騒ぎ、「東トルキスタンイスラム党」を作って組織活動を進めていた。三月以降は「異教徒に対するジハード(聖戦)」に備えて武器を集めていた。

 4月5日未明、230名余りが郷政府前に集合、コーランを唱えてデモを始めた。幹部が説得しても聞かなかったので、武装警官が出動、デモ隊と衝突した。結局舞台も出動しての銃撃戦となり、鎮圧にいたるまで武装警官など8名が死亡、13名が負傷したという。暴動側は首領ツェデン・ユスプを始め15名がこの間の戦闘で射殺されている。
 なお、アムネスティ・インターナショナルの91年レポートでは死者50名、6000名が反革命罪で訴追されたという。このバリン郷の動きは、すぐボーロ、タルバガタイ、アルタイなど新疆各地に広がった。

グルジャ虐殺は、ただの平和的なデモ隊に対する暴力的な鎮圧だったわけですが、このバリン郷事件は分離独立組織「東トルキスタンイスラム党」による武装蜂起であったということです。(ただし毛里さんの分析では、こんな少人数で分離主義の大規模な暴動だと見るのは現実的でないとしています。)暴動の直接のきっかけはモスク建設をめぐるトラブルと、産児制限だったという報道もあります。
ちなみに、この「東トルキスタンイスラム党」がのちに中共によって「東トルキスタン・イスラム運動」と名づけられ、テロリスト集団とされていきます。



これに対して、ウイグル太郎さんのサイトでは
http://www.turkistanim.org/japan/archive/20040420.htm

 バリン(Barin)郷の農民は侵略者を追い出して、東トルキスタンを独立させるために、長い時間をかけて武装蜂起の準備をした。鉄砲、ピストルなど武器を入手し、爆弾、手榴弾を作り、地下組織のメンバーに軍事訓練を受けさせた。1万人が武装し、他の地区と密かに連絡を取り、準備を進めていったのである。
 
 1990年4月5日バリン郷(人口は3万人)で1万人の農民がゼイディン・ユスプ(Zeydin Yusup)の指導下で鉄砲、機関銃、爆弾、手榴弾、ピストル、ナイフ、鍬、鎌などを持って侵略者への革命を起こした。まずアフト(Ahtu)県政府、共産党委員会を占領し、役人をコントロールすることに成功した。
 
 4月5日から始まった闘いで、侵略者軍の多くの軍がせん滅され、北京政府は“ウイグル農民の武装動乱はコントロールできなかった”と中央テレビで報道した。4月6日から戦闘は激しさを増し、侵略者は部隊を増やし、軍隊を10万人に増派した。4月5日から9日まで激しい戦闘が続いた。
 
 なすすべのなくなった北京当局は、ついに、ヘリコプター、戦闘機を飛ばし、バリン郷を空爆したのである。
 
 空爆武装蜂起は鎮圧された。ウイグル人は200人以上が犠牲となり、2千人以上が逮捕された。逮捕された農民のうちに200人以上は死刑になり、他は10年間〜無期までの懲役となった。侵略軍の数千人が死んだが、江沢民は鎮圧にてこずったことを恥じたのか、6人の警察と1人のウイグル通訳が犠牲になったと報道し、世界に10万人の侵略軍隊を派遣したことと、ヘリコプター、戦闘機、戦車まで派遣し、空爆した事実を発表しなかった。

と、もっと大規模な武装蜂起であって、中共の軍は空爆まで行って、やっと鎮圧できたとなっています。



もうひとり、押田さんのブログですが、
http://oshida.exblog.jp/3192965/

 一応東トルキスタン情報センターに詳しい紹介があります。東トルキスタン情報センターの記事の中には、ちょっと大げさなのではないかと思いたくなる記事もありますが、この記事に関してはだいたいこんな感じでいいのではないかと思います。
 実際弾圧には相当てこずったようです。当時、カシュガルの上空を絶えず軍用ヘリが飛んでいたという情報もあります。
 その後もこの事件に関わったと疑われた人は逮捕・釈放を繰り返しております。私の知り合いには弟がこの事件に関わっただけで、逮捕・拷問された人がいます。その弟さんは収監されていましたが、出所したときは拷問のために、障害者になっていました。

となっています。
 
 
バリン郷事件は、実際にどの程度の規模の暴動であったのか、
そしてこの暴動を起こした現「トルキスタン・イスラム党」が、またコスラップ村で訓練キャンプを設営していたのか
武装蜂起を起こそうとしていたのか、
また宗教指導者などがジハードを訴えた時には、どのくらいの東トルキスタンの人々が呼応するのか、
などなど多くの疑問が沸いてきます。

 
ちなみに今回のコスラップ事件について、世界ウイグル会議のラビヤ・カーディルさんは中国に対して、国連の査察を受けろと言っており、まだ中国の自作自演の可能性もあると見ているようです。

これからの研究者や団体などの、情報や分析を待ちたいと思います。
 
 
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